1978年2月生まれ(46歳)
東京生まれ東京育ち。趣味は、散歩、自転車、旅行、アウトドア、プログラミング、ものづくり、読書(小説家で一番好きなのはドストエフスキー)、映画(一番好きなのは『アンダーグラウンド』、B級映画全般も)、音楽鑑賞、弓道、乗馬、語学、書写。妻は小平九小・三中吹奏楽部出身の演奏家で、息子は6歳と2歳。性格はポジティブで粘り強い。データ分析・英語・会計・ICTに自信あり。
1978年2月生まれ(46歳)
東京生まれ東京育ち。趣味は、散歩、自転車、旅行、アウトドア、プログラミング、ものづくり、読書(小説家で一番好きなのはドストエフスキー)、映画(一番好きなのは『アンダーグラウンド』、B級映画全般も)、音楽鑑賞、弓道、乗馬、語学、書写。妻は小平九小・三中吹奏楽部出身の演奏家で、息子は6歳と2歳。性格はポジティブで粘り強い。データ分析・英語・会計・ICTに自信あり。
幼少期の写真
小学3年生の頃に両親が離婚。兄と私は父の元へ。家庭は荒れ、悲しい出来事もたくさん起きました。だれにも同じ思いはさせたくないという想いが、私の原動力のひとつかもしれません。
大学生時代
大学に入ってすぐに、父が経営する会社が、バブル崩壊のあおりをうけ、うまくいかなくなりました。学費のほとんどは大学に免除してもらえましたが、生活費のために、力仕事や接客業、塾講師、家庭教師などさまざまな仕事を経験しました。大変なこともありましたが、友人、恩師、親戚、地域の方々など多くの人が助けてくださり、また、自分でもチャレンジと思って楽しみながら大学生活を送りました。
ソニー社員時代
2003年に東京工業大学大学院 理工学研究科 物性物理学専攻 修士課程を修了し、ソニー株式会社へ入社。主に子会社向けのITコンサルティング業務に従事しました。海外の販社と連携して資材調達や経営判断を行うシステムの開発・保守・教育を担当しました。
在職時は、自分に割り当てられた業務だけではなく、同僚が自分と同じところで苦労しないようにするため、自主的な改善活動も行っていました。業務内容をまとめた資料をつくったり、単純な作業を自動化するツールをつくったり。自分がつくったものが多くの人に使われ、役に立っている状況を楽しく感じながら仕事をしていました。
国際規格会議 晩餐会にて
2004年、大手電機機器メーカーに勤める知人から「画期的な新型電池(実際はキャパシタといいます)が完成したから、うちで働かないか」という誘いを受けました。ニュースステーション(テレビ番組)でも大々的に取り上げられたことなどもあり、大きな可能性を感じたため、その社内に設けられたベンチャー企業に転職しました。しかし、入社後に自分で測定を行った結果、その電池は大きな課題を抱えており、売れるものではないことを知りました。この開発を続けていても社会の役に立たない。途方に暮れました。
その後、幸いなことに、ある大手企業が、別の原理で動作する高性能な新型電池を発表しました。早速その新型電池を借り受け、徹底的に分析調査を行いました。そして、同様な動作原理に基づく自社製電池の試作までこぎつけ、製法特許も申請しました。なお、それまでつくっていた電池は、コストも性能もまったく競争できないものでしたので、そちらの開発は一切取りやめ、会社の体制をすべて新しい電池の開発へと切り替える必要がありました。しかし、従来品の開発を続けたいという声が社内にはまだ多くありました。そこで、データをまとめ、詳細なレポートをつくり、勉強会も開催するなどして多くの社員に理解してもらい、ようやく、全社的に新製品開発へと舵を切ることができました。
その後は、自社製品だけ開発していても仕方がないということで、業界全体の市場を拡大するための活動に携わりました。講演会で講師を務めるなどPR活動も担当しました。ノーベル化学賞を取られた吉野彰さんとも講演でご一緒させていただき、お世話になったこともあります。徐々に業界団体の会合に出席させてもらえるようにもなり、安全性ガイドラインの取りまとめや国際規格業務も担当するなど、業界全体の発展に貢献しました。特にJEITA(電子製品全般の業界団体)における活動では、新型電池に関する国際規格化推進のリーダー役に選ばれ、素案の作成から国際規格(IEC62813)の成立まで導きました。経産省からは支援プロジェクトに選定され、国際電気標準会議(IEC)に派遣していただくなど、実績をつくることができました。この顛末の一部については、同業界でお世話になった(別の会社に在籍されていた)方が、次のブログで紹介してくださっています。
『リチウムイオン電池などの蓄電デバイスの国際標準化』
NASA宇宙飛行士訓練施設にて
高校生の頃から、「月の砂を掘ってみたい!」というシンプルな思いで宇宙飛行士に憧れを持っていました。2008年、10年ぶりに宇宙飛行士の選抜試験が行われると知りました。これは二度とないチャンスと考え、JAXA/NASAの宇宙飛行士選抜試験に応募。ファイナリスト(最終選抜者)の10名にまで残ることができました。宇宙飛行士になることはできなかったものの、高校時代からの夢にチャレンジし、自分のすべてを出し切ることができ、また、かけがえのない友人ができるなど、大変貴重な経験をしました。
この時の経験から、「夢を持ってチャレンジすること」が人生の醍醐味の一つだと改めて思うようになりました。たとえそれがどんな夢であっても、挑戦することで得られる経験や人のつながりは、自分の人生だけではなく、総じて社会全体を豊かにするものであると感じています。
新しいことにチャレンジする時は、いつも不安な気持ちになります。第一子を授かったことをきっかけに始めた政治活動も、まさにゼロからのスタートでした。自分にはできない、失敗したらどうしようと不安に押しつぶされることなく、誰もが積極的に挑戦できる社会にしたい。この想いを遂げるには、まずは自分が体現しなければならないと思い、緊張することもありながら政治活動をしています。
英語の会イベント(Cookinglish) での一コマ
会社の業務において英語を使う場面が増えると、日本人全体の語学力に危うさを感じるようになりました。最新の情報を得ようとすると、出てくるのは英語や中国語で書かれたものがほとんどです。日本語で書かれたものは皆無という状況も増えています。国際規格を審議する国際会議の場においても、発信する側の私たち日本人の語学力が極端に低いことも多く、そのために主要な役割を担えないケースもあるようです。
このままではいけないという思いから、また、社会人が集うコミュニティを作りたいという思いもあり、2010年に、参加者がお互いに英語を学びあう「英語の会」を、当時住んでいた国分寺市で開きました。参加費は1回1,000円程度、週1度の開催で4年以上続け、多い時で1回に10人程度、トータルで50名くらいの方とつながりができました。一定の貢献ができたのではないかと思っています。活動は中断していますが、今でも参加してくださった方々との交流が続いています。
まだ0歳の時の長男と
私自身は国際規格の仕事をさせていただきましたが、会社としては困難な状況が続き、電池開発のベンチャー企業は清算となりました。その後外資系企業からのお誘いがあり、短期間お世話になったこともありますが、方向性が違うと感じたため、2013年に起業しました。知人と共に、インターネットを活用して物品や各種ソフトウェア等の開発販売等を行ってきました。
2018年に第一子を授かり、父となりました。子供が生まれ、妻も小平市で育ったこともあり、小平市にもっと積極的に関わり、恩返しをしたいと強く思うようになりました。また、家庭を持つことでどんどん内向きになっていく自分に焦りも感じました。
会社員生活から解放されたことは、政治家になる好機でした。ずっと抱いてきた夢が、実現可能な目標へと変わりました。
議場にて
皆さまの応援のおかげで、小平市議会議員選挙に当選し、スタート地点に立つことができました。見ず知らずの私に期待してくださった方々、さまざまな形でお力添えを頂いた皆さま、本当にありがとうございました。
これからの4年間、全力投球で、だれもが夢を描ける小平を目指して尽力します!